2004/12/25 2:06

白河堂氏のイマジナリィ・ボード(その2)

タグ: ゲーム TRPG 考察

前回、白河堂さんのイマジナリィ・ボードについて「「RPGとはどんなゲームか」について馬場さんの講座・コラムを出発点として考察を深め、さらに先へと進んでいきます。そしてかなりいいところまでいっているのではないかと思います」と書きましたが、やはりたどり着いてくれました。それが「イマジナリィ・ボードの提唱(4) 編集編/先天・後天モデルの再起草」です。

そう、わかってはいたのです。しかし、どうにもすっきり言葉にできなかった本質を見事に抽出し表現してくれています。つまり、キャラクタープレイに関する問題です。
この問題こそ、馬場講座を最初に読んだときに強く反発を覚えた点であり、後のコラムでもしっくりこなかった点でした。
最初に馬場講座をちょこっと読んだとき、キャラクタプレイを強く否定するその記述に大いに反感をもったものです(馬場講座で否定しているキャラクタプレイと僕の思い描いたそれとは違っていたわけですが)。そしてその論理を否定してやろうとじっくり読み込んだ結果、…こりゃ凄いと感服してしまいました。馬場氏の計算通りに、その術中にまんまとはまってしまったわけです。

その後コラムの連載が始まり、「強いキャラクタープレイ」「弱いキャラクタープレイ」という区分けが出てきましたが、呼び方からもわかりますように、程度問題である、という主旨でした。つまり、両者の間に質的な違いはなく、やりすぎにならないよう注意しよう、という馬場コラムにしては珍しくまっとうなことをそのまま書いているだけでした。この結論から出てくる対策は、他の参加者に迷惑にならないように心配りをしようとか、コミュニケーション能力を上げようといった実効性に乏しいものばかりです。

しかし、今回白河堂さんが、ようやくにして明確な言葉で説明してくれています。

ここで私が指摘したいのは、一つの考え方である。つまり、否定されるべきは、物語性でも、演劇性でもない。真に否定されるべきは、その物語性/演劇性を、RPGのゲーム要素として料理しないままに楽しもうとする、非ゲームデザイナー的な態度にこそある、ということだ。

この引用はいってみればハイライトシーンです。ちゃんとリンクから全部読みましょうね。

これこそ、馬場講座の後についに現れた RPG にとって最も重要な言説ではないかと評価しています。
馬場講座で最も重要な点は、RPGの本質は意志決定を主軸とする「ゲーム」であるという立場を明確にし、これでもかというくらいそのことを強調しているところです。後は蓄えたノウハウをこの軸に沿って展開していくだけといっても良い。僕のサイトの論考記事も、「ゲーム」「意志決定」を軸として僕の蓄えたノウハウやアイディアを展開したものがほとんどです。
また、キャラクタプレイやストーリィを重視する立場の人たちが成功していないのも、「ゲーム」「意志決定」に替わる本質、理論の軸を抽出するのに失敗した、もしくは小手先のテクニックの解説にいそしみ本質は何かという点に頭が回っていないからです。僕が蓄えていたノウハウだって、「キャラクタープレイ」を RPG の本質と見なして展開すれば、同じテーマでもまた別の記事になったことでしょう。

そして、白河堂さんの上の言葉もまた、強力な軸となりうると見ています。
それによれば、RPGとは「物語」や「演劇」もゲーム要素として取り込むことができるゲームです。
では「物語」をゲームとして取り込むとはどういうことでしょうか? このテーマについて今まで意識的に論じられたことはほとんどないのではないかと思います。それだけに「「物語」をゲームとして取り込む」ということについて考察を深めていけば、新しい「発見」がたくさんありそうです。

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