2005/6/13 5:34
FEARのRPGを受け付けないわけ
唐突ですが僕は FEAR 系の RPG が嫌いです。え,知ってるって?
システムそのものはまあ良いというか NOVA などはトップクラスに入る出来の良いシステムだと思っているのですが,システムが想定している標準的な遊び方というか哲学が嫌いなのです。D&D で言えばダンジョンシナリオが嫌い,みたいなもの。
なので FEAR の RPG が「あんなのダメ」とか「クズ」とか言うんじゃなくって「嫌い」です。
それはなぜかというと,おそらく僕が RPG において疑似体験的な指向をかなり強く持っているからだと分析しています。
当然,疑似体験を妨げるような要素は極力排除したいと考えており,その阻害要因の最たるものが FEAR 系の RPG に付き物の「プレイヤの視点でセッションを進める」という考え方です。
そうではなくって「キャラクタの視点でセッションを進める」というのが僕のやりたい RPG です。
例えば,「登場判定」というのは「プレイヤの視点でセッションを進める」典型といえます。PC がその場面に登場する必然性に欠けるのであれば登場すべきではないし必然性があるなら判定なんていらないでしょう。
僕から見ると無理やり理屈をこねて登場させてもその時点で面白くなくなっちゃうんです。現実味を失って白けてしまう。
「登場判定」については「シーンに登場できなくってうだうだしているよりはまし」という「必要悪」としてならまだ受け入れないでもないですが(まあうだうだしている方がまし,というセッションも中にはある),「お話として面白くなる」とかいう理由でなされるものは拒否度がさらに高くなります。
「ご都合主義」とか「お約束」が大嫌いなのです。正確に言うと,「お約束だから」とか「こっちの方が話が面白くなるから」という理由で行動したり話を進めたりするのが嫌いなのです。
「こっちの方が話が面白くなる」なんてほとんどはその人の幻想で,単に「話を台無しにしている」だけです。
なので「結果的にお約束な展開になったね」ならまったくOK。
またハンドアウトで「セッションが進む中でヒロインと仲良くなる」という指示が書いてあったりするそうですが,これも受け付けられません。
ヒロインと仲良くなるかどうかはどんな出会いをしてどんな言動をするかをキャラクタの視点から観察して「ああ,これならこの PC は好感を持ちそうだ」と感じれば仲良くなるでしょうし「いけ好かないやつ」と感じれば無理に仲良くしたいと思いません。
無理に仲良く振舞ってもプレイヤにとってメリットがありません。「仲良くなる」という指示があるという事はきっと後でマスタがイベントシーンでも用意しているんでしょうが,無理に「仲良く」なってイベントが発生してそれでプレイヤは感動(というと大げさですが)できるんでしょうか? 形をなぞっているだけでそれって形骸化しているとしか僕には思えません。
似ているように思うかもしれませんが,「PC は既にヒロインと仲良くなっている」とか「PC はこれこれこういう女性がもろストライクゾーンだ」という設定であれば受け入れられます(あんまりな設定でなければね)。
「これこれこういう女性」がヒロインとして現れればたぶん仲良くなるでしょう。それが自然でありキャラクタにふさわしいと思うからです。
以上のように疑似体験を阻害する「プレイヤの視点からセッションを進める」スタイルは嫌いなのですが,一方で僕は現実主義者なので常にメリットとデメリットを天秤にかけます。上のような理想に反していたとしても,その理想をとるデメリットの方が大きければ妥協することもあります。依頼を引き受けないとその日暇になっちゃうとか……。
なので「必要悪」としてなら受け入れる準備があるのですが,FEAR の RPG はそうではなくって僕の嫌がるようなスタイルを積極的に推し進めているので嫌いなんですよねえ。相性が最悪です。
システムそのものはまあ良いというか NOVA などはトップクラスに入る出来の良いシステムだと思っているのですが,システムが想定している標準的な遊び方というか哲学が嫌いなのです。D&D で言えばダンジョンシナリオが嫌い,みたいなもの。
なので FEAR の RPG が「あんなのダメ」とか「クズ」とか言うんじゃなくって「嫌い」です。
それはなぜかというと,おそらく僕が RPG において疑似体験的な指向をかなり強く持っているからだと分析しています。
当然,疑似体験を妨げるような要素は極力排除したいと考えており,その阻害要因の最たるものが FEAR 系の RPG に付き物の「プレイヤの視点でセッションを進める」という考え方です。
そうではなくって「キャラクタの視点でセッションを進める」というのが僕のやりたい RPG です。
例えば,「登場判定」というのは「プレイヤの視点でセッションを進める」典型といえます。PC がその場面に登場する必然性に欠けるのであれば登場すべきではないし必然性があるなら判定なんていらないでしょう。
僕から見ると無理やり理屈をこねて登場させてもその時点で面白くなくなっちゃうんです。現実味を失って白けてしまう。
「登場判定」については「シーンに登場できなくってうだうだしているよりはまし」という「必要悪」としてならまだ受け入れないでもないですが(まあうだうだしている方がまし,というセッションも中にはある),「お話として面白くなる」とかいう理由でなされるものは拒否度がさらに高くなります。
「ご都合主義」とか「お約束」が大嫌いなのです。正確に言うと,「お約束だから」とか「こっちの方が話が面白くなるから」という理由で行動したり話を進めたりするのが嫌いなのです。
「こっちの方が話が面白くなる」なんてほとんどはその人の幻想で,単に「話を台無しにしている」だけです。
なので「結果的にお約束な展開になったね」ならまったくOK。
またハンドアウトで「セッションが進む中でヒロインと仲良くなる」という指示が書いてあったりするそうですが,これも受け付けられません。
ヒロインと仲良くなるかどうかはどんな出会いをしてどんな言動をするかをキャラクタの視点から観察して「ああ,これならこの PC は好感を持ちそうだ」と感じれば仲良くなるでしょうし「いけ好かないやつ」と感じれば無理に仲良くしたいと思いません。
無理に仲良く振舞ってもプレイヤにとってメリットがありません。「仲良くなる」という指示があるという事はきっと後でマスタがイベントシーンでも用意しているんでしょうが,無理に「仲良く」なってイベントが発生してそれでプレイヤは感動(というと大げさですが)できるんでしょうか? 形をなぞっているだけでそれって形骸化しているとしか僕には思えません。
似ているように思うかもしれませんが,「PC は既にヒロインと仲良くなっている」とか「PC はこれこれこういう女性がもろストライクゾーンだ」という設定であれば受け入れられます(あんまりな設定でなければね)。
「これこれこういう女性」がヒロインとして現れればたぶん仲良くなるでしょう。それが自然でありキャラクタにふさわしいと思うからです。
以上のように疑似体験を阻害する「プレイヤの視点からセッションを進める」スタイルは嫌いなのですが,一方で僕は現実主義者なので常にメリットとデメリットを天秤にかけます。上のような理想に反していたとしても,その理想をとるデメリットの方が大きければ妥協することもあります。依頼を引き受けないとその日暇になっちゃうとか……。
なので「必要悪」としてなら受け入れる準備があるのですが,FEAR の RPG はそうではなくって僕の嫌がるようなスタイルを積極的に推し進めているので嫌いなんですよねえ。相性が最悪です。