about "「楽しみ方」のパラダイムシフト"

一般 kilica 2006/1/8
「楽しみ方」のパラダイムシフト(流星亭日誌)より。 「ひぐらし」はこれからなんで少しどきどきしながら読みました。 ここのブログには他にも興味深い考察がたくさんあります。
予め決められた配役やストーリーラインを基に「話を膨らませていく」という物語創造的なゲーム性が理解されずに「やらせ」呼ばわりされたり、PCの死亡率が低い演出重視の戦闘が「ヌルい八百長」扱いされたり。 (中略) ノベルゲームもTRPGもまだまだ「型にハマった思考」に囚われている人が多く、この先どんな風に発展していくのかは断言できませんが……発信者の惜しまぬ努力によって”新しい”スタイルが少しずつ多くの人に理解され、受け入れられていくことを願っています。
確かに。僕は「やらせ」との区別があまりついていません。「ヌルい」んじゃないかとは感じることもありますが,「シビアなバランスで楽しむ」よりも演出などを重視しているのであればそれは「八百長」ではなく当然の進化なんだろうと思います。 しかし個人的にはそういった楽しみがいまひとつ理解できていなくて放ってあるのも事実なので,「型にハマった思考」なのかも知れんと思いました。で,久しぶりにゲーマーズフィールドでも買って読んでみたんですが,・・・うむむ,やっぱり分からん。謎かけ師に”啓発”でもされないとだめでしょうか。 とりあえず僕にとっての「RPG における物語」について,ちょっと考察してみました。 例えば,僕は「ダンジョンに言ってオークを倒して宝を手に入れて帰ってきた」というシナリオでも,満足できます。物語創造性のカケラもありませんね。 そしてここに,「実はこのダンジョンは・・・」とかちょっどドラマな要素が加わると「おお?」と惹きつけられることもあります。さらに「一見ただのダンジョンだったが後で思い返すと・・・」といった趣向があると,さらにぐぐっと惹かれていきます。 同じモンスタと宝を配置したダンジョンでも,背後に物語性を感じ取ると確かにグッと面白く感じられ,そういった方向を追求するというのも理解できます。 一方で,例に出した素っ気無いけど遊んで満足できるダンジョンに「ふはははは」とかどっかのアニメに出てきそうなステレオタイプな悪役が登場すると,不満度が急上昇します(笑)。そこに「貴様,よくもー」とか言い出す PC が加わると「もう好きにやってくれ」って感じになってきます。 一言で言うと,台無し。 つまり,例に出した素っ気無いダンジョンを「物語性=0」と考えると,付け加えることでプレイヤを強烈に盛り下げてしまうようなマイナスの物語性だとか演出も存在するわけです。 困ったことに読んだ記事の多くは僕にとってマイナスの物語性・演出を持ったものでした。やっぱりアニメかライトノベルの表層をなぞって有名なせりふを集めてきただけに見えてしまいます。 しかし,こういったのが大好きという人もたくさんいて,僕にとってはマイナスでも彼らにとってはプラスの物語性・演出として機能するわけです。 以上の直観的でザルな考察からわかったのは,僕は FEAR 的な「物語・演出」の好みとは決定的に合わないようなので,FEAR 系のものを読んでいては”「楽しみ方」のパラダイムシフト”から遠ざかる一方だろう,ということです。 逆に言えば,FEAR系とは別のところからアプローチすることで僕にも”「楽しみ方」のパラダイムシフト”が起きるかもしれません(まあ起きなくても困りませんが)。 やはり『深淵』あたりから攻めるのが良いかな。

about ”自己組織化セッション”

一般 kilica 2005/12/15
紙魚砂日記「自己組織化セッション」 僕も以前,別の問題意識からカオス的な構造を持ったシナリオができないかなあと思って,思ったきりでした。 実際には,とにかく関係設定をすればOK,ってわけではもちろんなくって,自己組織化の現象が狭い領域でしか起こらないのと同様,適切な関係設定をしないと,PCたちがばらばらの方向に動いて発散してしまったり,シナリオを始めてすぐに平衡状態に落ち着いてしまうわけで,その辺のノウハウは……誰か説明できないかなあ。

オープンソースじゃない TRPG

一般 kilica 2005/11/20
mixi で「オープンソース RPG」という話題が出たんですが,でもそもそも TRPG って一般的にオープンソースです。ルールをクローズにすると,判定の負荷がマスタに集中するため,困難だからでしょう。 しかし昨今の,プレイヤが皆ノートPCを持っているとかそもそもオンラインで遊ぶ,といったケースでは判定の処理にプログラムを使ってオープンソースではない RPG っていうのもありえます。 今はもう活動していないようですが,5年近く前からそういった試みをしてきたグループもあります(http://homepage3.nifty.com/AstralFighter/index.htm)。 TRPG のセッションでコンピュータを利用する,というと計算などの省力化やグラフィック面でのサポートなどが思い浮かびますが,判定処理やステータス管理をコンピュータ内部で管理してプレイヤに対してブラックボックス化することで,ちょっと変わった,面白い効果を生み出すこともできます。 例えば,ヒットポイントや負傷のステータスを隠蔽し,「元気」だとか「だいぶ重症のようだ」といった言葉で状態を伝えれば,「あと 10HP 残っているから一撃食らっても大丈夫」といったきわめてゲームよりの発言は鳴りを潜め,キャラクタの行動には,よりそのプレイヤの性格,勇敢さ(無鉄砲さ)が色濃く反映されることになります。 また,現実世界では効きもしない呪いをむにゃむにゃと唱えて安心したり,居もしない神様を祭ってその恩寵をありがたがったりという光景が見られますが,TRPG ではルールブックに魔術の効果がはっきりと書かれているため,そのような光景はみれらません。 しかし,これも呪いの効果を隠蔽することで,「その男は君の鎧に”戦さ場の守り”をかけ,『これで戦場で生き延びれよう』と請け負った」。でもって「畜生,あの呪い師め,効きもしない魔法でふんだくりやがって」と死ぬ前に毒づいたりもできるでしょう。 もしくは言葉巧みに民衆の支持を集めているインチキ司祭の正体を暴く,といったシナリオもありえます。 判定の管理だけならまだともかく,きちんと隠蔽しようとするとステータスの管理までやらなければならず,そうなるとマスタが紙にメモしてやっていくのはちょっと困難でしょうね。

不完全さをデザインする

一般 kilica 2005/11/15
対称にできるのに,わざとちょっと崩す。完璧になれるのに,一部だけ欠けている。その微小な破壊行為が,より完璧な美を造形するんだよ。 森博嗣,『封印再度』
先日のエントリに書いたとおり,Xoops Cube は年末くらいに Version 2.1 となり,今までは Cube になっても素人目には「あまり変わらないなあ」という感じだったのですが,ここでコアからがらりと変わるんだそうです。 そのコンセプトが,メインプログラマの minahito さんの最近のブログで語られています。こことかここです。 「完全」を目指す意志がより高いレベルの完全を体現する,という話は時々目にしますが,Xoops Cube 2.1 では実際にそれをソフトウェアの設計思想として取り入れてしまっているという,うーん,凄いの一言です。 TRPG というゲームも,狙ったものかどうかは分かりませんが同様の構造を持っていて,馬場さんが書かれているように不完全なゲームとしてユーザに提供されています。 僕がTRPGを始めて未だにやめずに続けているのは,この不完全さに取り憑かれたからと言ってもいいでしょう。 楽しみがすべてそこにあるわけではありませんが,ほかに楽しいことがたくさんある中で TRPG を続けている最大の理由は「不完全さ」です。「もっと良くなるはずだ」という幻想が,今でも僕を引っ張っています。 僕がプレイヤよりもマスタのほうがどちらかというと好きなのも,マスタのほうが不完全な部分が多いからです。 プレイヤからみた RPG の不完全な部分というのは,キャラクタを作り終わった時点で大半は終わっています。Magic: the Gathering でデッキを組み終わった時点で勝負の半分が終わっているのと同じですし,数学で解法が分かって後は計算していくだけ,という感覚とも似ています。

[キャンペーン] 規模から設計する

一般 kilica 2005/11/5
最近めっきり TRPG 関係の話題の比率が低下していますが,時々は書かないと。 次の研究テーマにしようと考えている「キャンペーン」について,当面はあまり構成を考えずに思いついたところから書いて行こうかと思います。 ** キャンペーンの全体像をデザインしようとすると,果たして何から手をつけていいか戸惑ったり,やることがたくさんあるように見えて画面や紙を前にただ時間が過ぎていく,というようなことがあります。 実はこれは RPG のプレイ中に発生するある状況に似ていて,それに対する解決策がそのままキャンペーン全体像のデザインにも有効なケースもあります。 そう,「馬場秀和のマスターリング講座」「タイムスケール管理」で述べられていることがそれです。 ちょっと引用してみましょう。
 実際にやってみれば分かりますが、単に「君達は3日以内にある行方不明の人物を捜し出さなければならない」と言っても、プレーヤー達はちっとも焦ってくれません。  3日という時間制限がどれくらい厳しいのか、あるいは大して厳しくないのか、実感としてよく分からないのです。  で、「どうしようか」と相談を始めてなかなか動こうとしなくなったり、だらだらと情報収集を続けたり、思いつきでふらふらと行動したり、とにかく緊迫感のないだらけたプレイに流れてしまいがちです。
キャンペーンの全体像をデザインする際も,「あんなシーン,こんなシーンを入れたい」「このNPCを出したい」「雪の広野の冒険を混ぜたい」など,漠然とした「やりたいこと」はいろいろあっても,それらを書き並べるだけではデザインになりません。また,これではなかなかキャンペーンの全体像をデザインするという作業が前に進まないものです。 そこでまず,キャンペーンを実時間でどれくらいやるつもりなのか,考えてみてください。 例えば,実時間で 1年のキャンペーンとしましょう。すると,どれくらいのことがこのキャンペーンでできるでしょう? まだあまりピンときませんね。 ではさらに,その 1年間で何回遊べるかを見積もってみましょう。 僕みたいな社会人だと,2ヶ月に 1回くらいしか集まれないことが多いでしょう。すると,このキャンペーンのプレイ回数は 6回程度です。つまり,やりたいことを 6回のシナリオに詰め込んでいかなければならない,という事です。 1回目は主要な登場人物の顔見せ,最終回はラスボスとの戦闘とすると,実に間は 4回しかありません。 もちろん,期間を伸ばす,頻度を上げるなどしてプレイ回数を増やして解決してもいいわけですが,限られたリソース(プレイ回数)の中に如何に「やりたいこと」を盛り込むか,「やりたいこと」を効果的に見せれるか,「実はどうでもよかったこと」を見つけ削るか,という作業にこそデザインがあり,キャンペーンを洗練させるチャンスがあるのです。

about "キャンペーンって"

一般 kilica 2005/9/22
TRPGつれづれなるままにの記事について。 ろくなアドバイスはできませんが,「こんなキャンペーンをやりたい」というお手本にしたいキャンペーンがきっと何かあると思うので,そのキャンペーンのどこが良いと思ったのか,をじっくり考えてみるといいかもしれませんね。 ちなみに僕にとっては新和の頃の D&D/AD&D のサポート誌に載っていた「栄光は誰がために」が目標の一つです。 僕は(環境が許すなら)キャンペーンをやりたい派でして,他のゲームに対して RPG が持っている大きなアドバンテージだと思っています。なので,「RPG をもっと面白くするには?」(この研究室のテーマなんです)を考える上できわめて重要なトピックと言えます。
  • キャンペーンの面白さとは何か?
  • 面白いキャンペーンとそうでないキャンペーンがあるとしたらその差はどこにあるのか?
  • 面白いキャンペーンには何が必要か? どうすればよいか?
  • キャンペーンにもっと可能性はないか?
といったことを考えていきたいなあと新年を迎えたときに思いましたが,もう10月になろうとしていますね。 また上のようなことを考察する前に「キャンペーン」の形態や特性について整理したい,とも思っています。 昔(15年くらい前)は断片的ながらもキャンペーンに関する記事が雑誌に載っていましたし,『キャンペーンガイド』なる単行本もマニアックな新紀元社から発売されていました(中身はどっちかというと「ワールド作成ガイド」でした。朱鷺田さんの『ファンタジーメイキングガイド』の方がキャンペーンガイドっぽかった)。 最近は雑誌を読んでいないのでキャンペーンという遊び方がどう扱われているのかよく分かりませんが,いずれにせよウェブ上で気軽に入手できる記事はあってしかるべきだよなあと思っています。 TRPG.NET の Wiki あたりで充実した解説があればいいんですが,今のところは百科事典的な説明が載っているだけですね。

about "TRPG(中略)プリキュアを憎む理由(2.0)"

一般 kilica 2005/7/1
「D16 の日記」に掲載されていた「TRPG(中略)プリキュアを憎む理由(2.0)」について。 まったく同感です(プリキュアの部分でなくてキャンペーンの部分ね。プリキュアは観ていないのでノーコメント)。
 シリーズ構成も、伏線も、キャラクターの複雑な過去も、思わせぶりなライバルキャラも、PC同士の絡みも何もかも。    必要ない。
これだけ読むとちょっと誤解されそうなので,必ずリンク先の元の文章も読んでくださいね。 実に分かりやすくキャンペーンの魅力を言い当てていると思います。 「補足」「補足さらに」に書かれていることもさりげなく重要なポイントですね。

RPGにおける真剣勝負

一般 kilica 2005/6/20
白河堂さんの『神饌喰い。』の「Scoops RPG掲示板にて」のコメントより。
RPGの戦闘が面白いこと、建前はどうあれ現実問題としてRPGが戦闘メインのゲームとして遊ばれることが多いのは否定できない事実だと思うのですが、「バトルゲーム」と言い切ってしまうには、カードゲームとか対戦格闘ゲームに比べると競技性が低いことは否めないと思うのです。マスターの裁量に任されている部分が大きく、レギュレーションが不明確で、突き詰めていくと結局、RPGの戦闘って「片八百長」だよね?、というところに行ってしまう。
納得できる部分もあり,なかなか興味深い指摘ですが,そもそも GM vs パーティ を目指しているわけではないので,「片八百長」というのはちょっと変かな。 例えば跳び箱は跳ぶ人に応じて段を変えることができるようになっていますが,5段をかろうじて跳べるかどうかって人に「この跳び箱は10段まで増やせる。5段を跳んで喜んでいるのは八百長だ」というのは言葉として適切ではない,というのと同じ意味で適切ではないと思います。 その人にとっては5段であっても十分に挑戦しがいのあることであり,楽しめるからです(僕は跳び箱大嫌いでしたが(^ ^;)。 これが「二人でどっちが高い段を飛べるか」という競争だと話は違ってきますが。また,「5段はやっぱり無理そうだから4段に下げてとにかく跳べるようにしよう」とするとまた話は違ってくると思います。 もうちょっと例を挙げると,パズルは一般に解けるように作ってありますが,だからといってそれを八百長と呼ぶのは不適切だと思います。 でもって RPG のゲーム性ですが,M:tG をはじめとするカードゲームやボードゲームが持っている競技性に起因するのではなく,「いかにこのプロジェクトを成し遂げるか」とか「如何にロシアとの二カ国間協議で日本の主張を通すか」といったビジネスや政治の世界の課題解決に類似性があるとみています。 競争相手をおいて競技にするというのは真剣勝負をさせるための手っ取り早く確実性の高い手段ですが,競争相手がいないからといって真剣勝負にならないわけではありません。 ただおぞんさんの指摘も現実には当たっている部分があり,マスタの中にはあからさまに手加減していると分かるような運用をする方もいて,そういったプレイを多く経験していると「RPG は八百長」とか「出来レース」といった評価を下すようになっても仕方ないことです。 困ったことに,マスタが手を抜く運用に走るのには無理ない部分もあって,「”失敗”できるシナリオ」で指摘している問題が絡んでいます。

about ”「キャラクタープレイング論」その3 「物語の中のキャラクター」”(2)

一般 kilica 2005/6/18
引き続き,仮想光線さんの”「キャラクタープレイング論」その3”について。 原文などについては一つ前のトピックをご参照ください。 仮想光線さんはこの研究日誌をいちおうチェックされているようで,前回僕が出した疑問について丁寧に回答してくれています。できれば元記事に対するリンクも付けていただきたいのですが(^ ^;。
> 今のところ,キャラクタが魅力的であるための要素や条件についてはまとまった提示がない。 とのご指摘を受けました。なるほど、私の論はここら辺が十分に煮詰まっていません。
これはだいたい予想通り。本来仮想光線さんの主張に欠かせない重要なポイントのはずですが,それをずばり取り出して見せるというのは生半可な能力では無理ですからね。僕もそういったことはできませんし。 おそらく仮想光線さんの中には「魅力的なキャラクタとして成立する条件」が確固としてあるんだけど理解しやすいよう整理されていないという事だと思います。それは今後の投稿の中で断片的に明らかになっていくと思いますので,それを手がかりに再構築していく,というアプローチになるんでしょう。 たぶん前回の僕の日誌の中では判りにくかったと思いますので(読み直してそう思った),補足しておきますと,僕が知りたいのは「プレイヤはどこをがんばれば”魅力的なキャラクタ”になるのか」ということです。 ぱっと思いつくところですと,
  1. キャラクタを作成するときにがんばる
  2. プレイ中にがんばる
  3. どっちも同じくらいがんばる
という三つの方針があります。 例えば作成を重視するというのであれば,プレイロールドキャラクタはよろしくないとか平凡な設定ではつまらないからユニークなキャラクタを作れるようシステム側で工夫されているのが望ましいとかいった結論が演繹的に導き出せるわけです(挙げたのはあくまでも例なのでそこには突っ込まないでね)。

about "「キャラクタープレイング論」その3"

一般 kilica 2005/6/18
仮想光線さんが Scoops RPG にキャラクタープレイング論の第3弾を投稿していました。
Scoops RPG 「読者の声」の原文へのリンク 「キャラクタープレイング論」その1 「キャラクタープレイング論」その2 「キャラクタープレイング論」その3 「物語の中のキャラクター」 前回の感想 Re:「キャラクタープレイング論」その1 Re:「キャラクタープレイング論」その1(続き) Re: 「キャラクタープレイング論」その2
今回,前半はキャラクタの特徴,とりわけ性格について。後半はキャラクタをどう表現するか,そのテクニックについて,という感じ。 GURPS のキャラクタ作成システムは「物語創造」に向いていない,というのが前半のハイライトで,なるほど,その通りですが,改めて考えてみると元々 GURPS ってそういう設計じゃないので向いていないのも当然。なのでそれをもって「失敗」とするのはちょっとかわいそうかな。 僕が思うに「人物シミュレータ」でもない。もし「人物シミュレータ」を目指してデザインしたとすれば,「不利な特徴」なんてあまりにも偏っている。 ゲーム上の制約をプレイヤ側からデザインできるようにしたのが GURPS のキャラクタ作成システムで,つまりゲーム性を高めるための仕掛けの一つです。 Pendragon の Trait はプレイヤに訴えかけてくるものがとても強いというのは同感。1回しか遊んだことがありませんがとても良いシステムだと思います。 「PLが平等と言うこと」と名づけられた節は短いですが興味深く,当初僕が想定していたよりも仮想光線さんはラディカルに「物語創造」を考えているようだ,と思いました(節のタイトルは「PL」ではなく「PC」の間違いっぽいですが)。 問題は「プレイヤに対して平等」についてどう考えるか,という点です。大半のシステムでキャラクタの強さが平等になっているのは,戦闘シミュレーション云々は本質的には関係なく(PC が,ではなく)プレイヤが活躍できる機会を平等に与えるための措置です。 物語という観点からみると,PC の強さが平等というのは何の意味もない,というのはその通りだと思いますが,じゃあ,と PC の強さをばらばらにすると,弱い PC を割り当てられたプレイヤは一般に不満を持つわけで,「PC の強さはばらばらにすべき」と主張するのであればこの不満を解消する方法を提示することが必要です。 方向性としてはたぶん二つで,一つは「PCの強さ」と「セッションで活躍できる度合い」の相関を無くすようなシステムにすること。 漫画や小説などのフィクションでは(少なくとも最初は)何の力もない少年が主役を張っていたりします。ただそのシステムをRPGに落とし込もうとすると簡単ではありませんが,既に『深淵』がその実現にかなり成功していると評価しています。 もう一つは「活躍できる度合いが違う」ことで生じる不満を消し飛ばすような別の大きな満足をプレイヤに与えることです。 仮想光線さんの回答はたぶん「物語創造」がそれだ,ということになり,それは正しいと思いますが,その価値観を具体的にどうプレイヤに浸透させるか,を詰めないと絵に描いた餅になってしまうと思います。

FEARのRPGを受け付けないわけ

一般 kilica 2005/6/13
唐突ですが僕は FEAR 系の RPG が嫌いです。え,知ってるって? システムそのものはまあ良いというか NOVA などはトップクラスに入る出来の良いシステムだと思っているのですが,システムが想定している標準的な遊び方というか哲学が嫌いなのです。D&D で言えばダンジョンシナリオが嫌い,みたいなもの。 なので FEAR の RPG が「あんなのダメ」とか「クズ」とか言うんじゃなくって「嫌い」です。 それはなぜかというと,おそらく僕が RPG において疑似体験的な指向をかなり強く持っているからだと分析しています。 当然,疑似体験を妨げるような要素は極力排除したいと考えており,その阻害要因の最たるものが FEAR 系の RPG に付き物の「プレイヤの視点でセッションを進める」という考え方です。 そうではなくって「キャラクタの視点でセッションを進める」というのが僕のやりたい RPG です。 例えば,「登場判定」というのは「プレイヤの視点でセッションを進める」典型といえます。PC がその場面に登場する必然性に欠けるのであれば登場すべきではないし必然性があるなら判定なんていらないでしょう。 僕から見ると無理やり理屈をこねて登場させてもその時点で面白くなくなっちゃうんです。現実味を失って白けてしまう。 「登場判定」については「シーンに登場できなくってうだうだしているよりはまし」という「必要悪」としてならまだ受け入れないでもないですが(まあうだうだしている方がまし,というセッションも中にはある),「お話として面白くなる」とかいう理由でなされるものは拒否度がさらに高くなります。 「ご都合主義」とか「お約束」が大嫌いなのです。正確に言うと,「お約束だから」とか「こっちの方が話が面白くなるから」という理由で行動したり話を進めたりするのが嫌いなのです。 「こっちの方が話が面白くなる」なんてほとんどはその人の幻想で,単に「話を台無しにしている」だけです。 なので「結果的にお約束な展開になったね」ならまったくOK。 またハンドアウトで「セッションが進む中でヒロインと仲良くなる」という指示が書いてあったりするそうですが,これも受け付けられません。 ヒロインと仲良くなるかどうかはどんな出会いをしてどんな言動をするかをキャラクタの視点から観察して「ああ,これならこの PC は好感を持ちそうだ」と感じれば仲良くなるでしょうし「いけ好かないやつ」と感じれば無理に仲良くしたいと思いません。 無理に仲良く振舞ってもプレイヤにとってメリットがありません。「仲良くなる」という指示があるという事はきっと後でマスタがイベントシーンでも用意しているんでしょうが,無理に「仲良く」なってイベントが発生してそれでプレイヤは感動(というと大げさですが)できるんでしょうか? 形をなぞっているだけでそれって形骸化しているとしか僕には思えません。 似ているように思うかもしれませんが,「PC は既にヒロインと仲良くなっている」とか「PC はこれこれこういう女性がもろストライクゾーンだ」という設定であれば受け入れられます(あんまりな設定でなければね)。 「これこれこういう女性」がヒロインとして現れればたぶん仲良くなるでしょう。それが自然でありキャラクタにふさわしいと思うからです。 以上のように疑似体験を阻害する「プレイヤの視点からセッションを進める」スタイルは嫌いなのですが,一方で僕は現実主義者なので常にメリットとデメリットを天秤にかけます。上のような理想に反していたとしても,その理想をとるデメリットの方が大きければ妥協することもあります。依頼を引き受けないとその日暇になっちゃうとか……。 なので「必要悪」としてなら受け入れる準備があるのですが,FEAR の RPG はそうではなくって僕の嫌がるようなスタイルを積極的に推し進めているので嫌いなんですよねえ。相性が最悪です。

プレイヤのシナリオ

一般 kilica 2005/6/11
コンピュータの処理性能の向上によって最近では地球規模の減少をモデル化しシミュレートするという事も可能になってきましたが,依然として長期的な未来を予測することは不可能です。 昨年,環境・健康・社会などの専門家が集まり,どの問題を優先的に解決するべきかを話し合い「コペンハーゲン合意」というものを発表したそうですが,その中でも結局は,問題も対処法もはっきりしている課題(飢餓や HIV,マラリア)から順番に片付けていこう,という結論に。 これは,将来のことについては不確定な事柄が多すぎるため当然ともいえます。例えば地球温暖化についても,数十年後には化石燃料資源の枯渇によって温室ガスの排出が減るかもしれないし太陽活動の低下によって進む寒冷化と相殺されるかもしれません。 もっと身近に,自分の40年後に備えることを考えても,不確定要素は大きすぎます。変動を繰り返しながら現在程度の景気が続くのか,20世紀初頭のような恐慌が襲っているのか,年金制度は破綻していそうだけど,そもそもまだ生きているのかも怪しい。到底予測なんてできそうにありません。 そこで,正確な将来の予測の代わりにとられる現実的な解決策として,幾つかの「シナリオ」を描いてそれを比較検討し,最も適したシナリオに沿って行動していく「シナリオプラニング」と呼ばれる手法があります。 先ほど例に挙げた40年後に対する備えに当てはめると,「日本経済が恐慌に陥っていた場合」「日本経済が不況に陥っていた場合」「日本経済が現状を維持していた場合」「日本経済が高度成長期のような活況を呈していた場合」という想定のシナリオをそれぞれ分析・比較し,最も適当と思われるシナリオに対する対策を実行していくわけです。 じゃあどれをどうやって選べばいいんだ,という疑問がわいてくるわけですが,最悪のケースを想定してそれに対応できるようにする「予防原則」という方針と,想定した事態が発生したときの影響額に発生確率をかけ,対策費用と比較して採否を決める「費用便益分析」と呼ばれる手法があり,EU 諸国は前者を,USA は後者を採ることが多いそうで,確かになんとなくそんなイメージがあります。 以上が日経サイエンス2005年7月号の「不確実な未来をどう扱うか」という記事のあらましで,記事では第3の方針である「頑健な戦略」をとるのが良いという主張が出ていますが,興味がある方は買って読んでください。 日経サイエンス2005年7月号 でこっからが本題です。もちろん RPG の話です。 「先を考えるプレイ」で書いたように,「問題が起こってパーティが呼ばれて対応することになった」という構造のセッションよりも「パーティが現状を分析した結果,深刻な問題が発生することが予測されそれに対する対応をとることにした」という構造のセッションの方がゲームとして面白くなるだろうと考えています。 つまりプレイヤが現状を分析し,「シナリオ」を描いて比較検討し,対策を実行する,というセッションになるわけです。 ただ,プレイヤたちがシナリオを描けるほど十分に現状についての情報をマスタ側で準備・提供できるか,という問題があり,テーマによって向き不向きはあるだろうと思います。 また多くのプレイヤ(僕もそうだけど)はそういったプレイに慣れていないというか「自分でシナリオを描く」という発想からしてそもそもありませんので,プレイヤたちがそうしたスタイルに慣れるまではマスタ側からの相当のプッシュが必要になると思います。さもなくば「自由に動いていいといわれたけど何をしていいか分からない」という例の困った状態と同じ事態に陥ってしまうでしょう。 どうすればこういったセッションが上手く機能するかについても,今後考えてみたいと思います。

Re: ミニゲームデザインという生き方(神饌喰い。)

一般 kilica 2005/5/31
『神饌喰い。』「ミニゲームデザインという生き方」で白河堂さんが書かれていた
>考え方  考え方はまったく同じだと思います。  ただ、ここで自分が強調したいのは、 「んじゃ、やってみる?」  と、すぐにシーン独立型セッションを立ち上げられる準備をしながら生活しているゲームマスター人口を増やす、ということですね。つまり、自分が本当に求めているのは、シーン独立型セッションではなく、シーン独立型ゲームマスターである、ということです(笑)
についてです。  「なるほど,すごい」と思いました。僕には出来そうにないなあと思ったからなのですが,でもなんで「出来そうにない」と思ったのだろうか,というのを考えてみました。  同じようなケースで,ボードゲームであればできます。大学のサークルで,4,5人集まれば『ファーストフード・フランチャイズ』や『アクワイア』をよくやっていました。また2人でも『マジック・ザ・ギャザリング』を遊んだり。  これは別に特定のゲームをやろうと意気込んで集まったわけではなく,ちょっと暇な連中がたまたまそろったので「じゃあやろうか」ということになって,実際に始められるわけです。  ところが RPG だとそうは行かなくって,いろいろ準備が必要になります。プレイヤにはキャラクタが必要ですし,マスタにはシナリオが必要です。このうち PC はプレロールドで済ませることもできますし,クラシックD&Dあたりなら作るのにさほど時間もかかりませんので,その場で作ることで解決できます。  しかしシナリオのほうは(僕にとっては)そう簡単にはいきません。そりゃ僕だってフルアドリブでそれなりのセッションはこなせますが,シナリオの作っていないセッションというのは認められないのでやろうと思いません(このあたりについてはまた機会がありましたら)。  別の方法としては市販のシナリオを使うというのもありますが,それだって事前にそれなりにシナリオを読み込まないと安定して楽しむことはできません。  ボードゲームはちょっと集まればすぐに始められるのに RPG はそうは行かない。なぜ RPG はシナリオが必要なのでしょうか?  ボードゲームの場合,ゲーム性を提供する要素は二つあって,それはサイコロや伏せられたカードによる「ランダム性」と「競争相手」です。  「ランダム性」は,例えば1回の手番を使ってイベントカードを引くか,とっとと先に進むか迷わせる,といった葛藤を提供します。いいカードを引けば選択は正しかったといえますが,つまらないカードを引けば1回を無駄にしてしまいます。「ひいてみるまで結果が分からない」という不透明性がゲーム要素を提供するわけです。これは RPG にも当てはまり,「戦った方がいいか逃げた方がいいかはダイスを振ってみるまで分からない」といった状況がそれにあたります。  一方,ボードゲームのもう一つのゲーム性である「競争相手」はほとんどの RPG には欠けている要素です。  競争相手の存在によって,ゲームの先の展開が読めなくなり,それがゲーム性となります。将棋などの完全情報ゲームのゲーム性はもっぱらこの要素からなっています。  一方,RPG でその代わりを果たしているのがシナリオ(とそれを運用するマスタの存在)です。シナリオがどう展開するか見えないため,プレイヤは悩むことになるのです。例えば,ダンジョンの残りの部屋が1つなのか3つなのかで,魔法やアイテムをどれだけ使うべきか変わって来ますが,マスタには分かってもプレイヤには分かりません。そこで安全策をとるか全力を投入するか悩むわけです。  同じシナリオをプレイヤとして何回も遊ぼうとするとあまり面白くならないのは先の展開が見えて葛藤にならないからです。言ってみれば,相手がどう動くか予め確定してわかっているボードゲームのようなものですね。  このように,RPG の場合はゲーム性を確保するために毎回違うシナリオを用意する必要があります。一方,多くのボードゲームでは,ゲーム性は対戦相手の存在が提供してくれるので,同じボードで何回も遊ぶことができます。  この構造が理解できれば,とるべき道も幾つか見えてくるのではないでしょうか。  一つは,PC 間の競争を取り入れ,何度も遊べるようなシナリオを作ることです。『深淵』の「落雷」がこのようなシナリオの代表といえます。  もう一つは,作れるのかどうかわかりませんが(^ ^; シナリオのごく一部のパーツを変えるだけでまったく違った様相を見せるシナリオを作ることです。カオスな振る舞いをするシナリオですね。  単純な例を出すと,同じシナリオでも A の味方として遊んだ場合と B の味方として遊んだ場合でぜんぜん違ってくるとか。  三つ目の方向性としては,「ランダム性」を突き詰めたシナリオにすることです。たぶんこれが一番簡単でハック&スラッシュの戦闘だけのシナリオがその代表といえるかと思います。

Re: 「キャラクタープレイング論」その2

一般 kilica 2005/5/17
 Scoops RPG の「読者の声」に仮想光線さんのRe: 「キャラクタープレイング論」その2が掲載されました。その1はちょっと前に取り上げました。今回もなかなか面白いので取り上げてみます。  Scoops RPG にもトラックバックできるといいんですが。
Scoops RPG 「読者の声」の原文へのリンク 「キャラクタープレイング論」その1 「キャラクタープレイング論」その2 前回の感想 Re:「キャラクタープレイング論」その1 Re:「キャラクタープレイング論」その1(続き)
 最初に,全体的な感想としては着眼点は前回同様,なかなか興味深いものがあり,考えさせます。  しかしこれまた前回同様,敷衍する例示が不適切で論理展開も詰め切れていない部分が見受けられ,「「より面白い物語創造をする」のが RPG の目標である」という根幹の主張についてはやや説得力に欠けます。がここで事細かにあげつらっても益はありませんので,仮想光線さんの指摘を発展的に捉えてみたいと思います。  さて,今回はまず最初に,RPG を遊ぶ「目標」は「より面白い物語創造をする」であるとしています。この「物語創造」という言葉が適切かというといささか怪しいと思いますが,ともあれこの一文はもちろん非常に重要です。”RPGの本質はゲームでありすなわち意思決定である”というのが馬場講座を支える土台であり,それを首尾一貫して講座の中で展開していったところに馬場講座の力強さがあると僕は見ているのですが,その土台の代わりを提示しているわけです。  上手くやれば RPG の別の面が見えてくるかもしれません。  で,仮想光線さんの主張をばっちり理解できているかと言うとイマイチな部分もあるのですが,もともとの文章が馬場講座を意識したものになっていますので,それぞれが RPG をどう捉えているかを対比してみましょう。 ゲーム性重視と物語重視の対比  すぐ分かるかと思いますが,左側の青い方が馬場さんのRPGの捉え方を図にしたもので,右側が仮想光線さんの方を図にしたものです(正確には馬場さんがRPGをこう捉えていると僕が理解している,ですが)。  簡単に説明しますと,馬場講座での RPG の捉え方は次の通りです。
 RPG はゲームである。ゲームである以上,意志決定が最も重要である。その意志決定は,
  • 葛藤
  • アカウンタビリティ
  • 結果に対する責任
を要素として備える。  そして RPG は,この最も大切なゲーム性を支援する方向でデザインされる(べきである)。すなわち,
  • システム
  • 背景設定
  • シナリオ
のいずれもが,よりよい意志決定を支援するようデザインされているのである。
 いっぽう,仮想光線さんの主張をこれに対比させると次のようになります。
 RPGは物語創造の遊びであり,物語創造にとってはキャラクタが魅力的であるというのが最も重要である。今のところ,キャラクタが魅力的であるための要素や条件についてはまとまった提示がない。  そして RPG は,この最も大切な物語創造を支援する方向でデザインされる(べきである)。すなわち,
  • システム
  • 背景設定
  • シナリオ
のいずれもが,より魅力的な物語創造を支援するようデザインされているのである。
さて,僕は仮想光線さんの図にあるように RPG はデザインされていないと思っています。少なくとも,今の RPG がそうだ,というのであれば,無駄な部分が多すぎるし必要な部分は足りないと思っています。しかし,徹頭徹尾,仮想光線さんの提示したコンセプトでデザインされた RPG というのもなんだか非常に面白そうで見てみたいという気はします。

Re: 「キャラクタープレイング論」その1 (続き)

一般 kilica 2005/4/17
前回のつづきです。 取り上げていた記事は,こちら。 「キャラクタープレイング論」その1 (by 仮想光線) Deck of Many Things の 2005.04.16 の記事「[Link] So-called "Character Playing" 」で取り上げられましたが,同日の記事「[Link] Delights of GMing 」では,
なるほど、power-gamingの楽しさというのは、ゲーム性云々ではなくDMの味わう驚きという側面から改めて再評価すべきなのかなぁ、とか思ったり。)
と書かれていて,これが前回の最後で書いた
僕がいま考えている仮説が「RPG のプレイヤには自分のキャラクタを表現したい,もしくはキャラクタを通して何かを表現したい,という欲求がある」というものです。
と微妙に絡んできたりします。  最近は D&D3/3.5 のプレイヤがメインで,上の power-gaming を主に楽しんでいるわけですが,この場合「自分のキャラクタを表現したい,もしくはキャラクタを通して何かを表現したい」の「何か」というのは,「自分のキャラクタが上手く機能すること」つまり「冒険をこなす上でパーティの役に立てること」であり,要するに D&D3e では「戦闘で役に立つこと」です(単純化して言えば,ですが)。  これは「キャラクタを適切にデザイン(取得する特技や技能,上級クラスを取捨選択)すること」と「セッション中に,デザインしたとおりに適切に運用して力を発揮すること」の二つのパートに分かれます。  で,D&D3e だと膨大なルールがありますので,自分のクラス以外はほとんど未知の領域(読んでられません)であり,他のプレイヤがどんなキャラクタを作ってくるのかとても楽しみです。上手いプレイヤはこちらの予想を2段階くらい上回るキャラクタを作ってきてびっくりしますし宮本さんが指摘している通りとても面白い。  状況はマスタにとっても一緒ですべての特技や上級クラスを把握するなんてできないので「なんじゃそりゃー」ってキャラクタが多いようです。まあプレイヤみたいにのんきに喜んでばかりもいられず,シナリオの調整には四苦八苦しているようですが。  一方で,キャラクタプレイが好きな人と言うのは,例えば仮想光線さんの文章で取り上げられている例を見るに,
  • キャラクタが絡んでできていく物語
  • キャラクタが実在するかのように演じて見せるところ
  • キャラクタが格好良く活躍するところ
を参加者に鑑賞して欲しいと感じているようです。  また,ルーンクエストや深淵のようにキャラクタの背景や心情を深く設定するような RPG では,
  • 設定を如何に上手く自然にシナリオに沿わせるか
  • シナリオの中で如何に「キャラクタ」を他のプレイヤやマスタに伝えるか
といった点が「RPG のプレイヤには自分のキャラクタを表現したい,もしくはキャラクタを通して何かを表現したい,という欲求がある」の「何か」に当たります。 ** このように,強い RPG を好む人たちにしてもキャラクタプレイ愛好家にしても「RPG のプレイヤには自分のキャラクタを表現したい,もしくはキャラクタを通して何かを表現したい,という欲求がある」という点では共通しているのではないか,というのが前回の日誌で出した仮説です。 でもってこの着想は,実は白河堂さんの「『Scoops RPG主催 RPG全国共通一次試験』」に対する回答(特に設問3の回答)を作っていく中で浮かんだ考えがベースになっていたりします。
同じ行動であっても他のプレイヤにそれを伝える上でどうプレゼンテーションするか。そこから他のプレイヤはそのプレイヤ/キャラクタのパーソナリティを読み取る機会を得る。これが RPG のコミュニケーション的特性である。
って辺りですね。

RPGにおける言論活動

一般 kilica 2005/1/12
白河堂さんの blog でRPGについての言論活動について疑問が書かれています。
となれば、わざわざ卓上を離れてRPGについて言論することは、果たしてRPG界にとってどれだけ有効なことなのか?
僕の場合はそれ自体が楽しいので「もっと面白くする方法はないかなあ」といろいろ考えて意見を求め,実際にやってみて「あそこはうまく行った,こっちはだめだった」とやっているわけですが…。 ところで,RPG は卓上に集まらないとできません(とりあえずネットはおいておこう)。 つまり,上の疑問の見方を変えれば,RPG について言論活動をしている人は卓上を離れてなお RPG のことを考えずには居られないほど RPG を好きな人,とも言えます。 ほとんど病気かも。会社を出てなお仕事のことを考えつづける人よりはいい?

情報収集

一般 kilica 2005/1/9
紙魚砂日記「個別導入シナリオにリサーチフェイズは必要ない」という記事が掲載されています。 リサーチフェイズというのは「主にFEAR系のシステムで命名されたのだが、セッション中の中間部…導入?クライマックスの間の最終目的に到達するまでにあれこれ調査する場面のことを示す。」のだそうだ。 ご存知のとおり僕はFEARのゲームは性に合わなくてやらないので良く知らないんですが,RPG のシナリオ構成(特に日本の)の中で一番(導入部とどちらが一番か悩むけど)問題なのが調査/情報収集だというのは同感。 ただし、紙魚砂氏の問題意識とは,違っているような気がする(よく理解できない部分が多くてあいまいな表現になっています)。「天国の扉」も好きだし(笑)。 (出来の悪い)調査フェイズが退屈だ,というのは一緒です。ではどういう調査フェイズが良くないと考えているかというと,まあ大体パタンが決まっていて「シナリオを解決するのに必須な情報を手に入れる」ための調査フェイズはまず退屈です。 代表的な例を出すと「ラスボスの居場所」とか「犯人は誰か」とか「アイテムがどこに隠されているか」といった調査が必要になると,ひっじょーに嫌な予感がします。 こういった調査はたいていの場合,単なる作業に過ぎないからです。マスター側,あるいはシナリオを作る側からすると,こういった調査フェイズはなんとなくRPGをやっている雰囲気になって時間も稼げるのであまり考えずにシナリオに盛り込む人が多いようですが,やることといえば「どこそこで聞き込みをする」「図書館で調べる」などのお決まりの作業に過ぎず,戦闘と違って状況が刻々と変わって対応しなければならないわけでもないため,面倒なだけ。 加えて,シナリオ構造的にもよろしくありません。万が一,調査に失敗するとシナリオはそこから進まなくなってしまいます。そこでマスタは,簡単に見つかるようにするとか,ヒントを出すとか本末転倒な事をはじめるわけです。 僕から見れば,退屈でしかもセッション失敗の確率の高いシーンをわざわざ追加しているようなものです。 本当は,セッションが始まって5分で最終目的地まで行けるような構造のシナリオが良いのです。 ただし,行こうと思えば行けるけど負けるか被害が大きいようなシナリオです。 まあ情報収集の役割に書いたとおりなんですが。

白河堂氏のイマジナリィ・ボード(その2)

一般 kilica 2004/12/25
前回、白河堂さんのイマジナリィ・ボードについて「「RPGとはどんなゲームか」について馬場さんの講座・コラムを出発点として考察を深め、さらに先へと進んでいきます。そしてかなりいいところまでいっているのではないかと思います」と書きましたが、やはりたどり着いてくれました。それが「イマジナリィ・ボードの提唱(4) 編集編/先天・後天モデルの再起草」です。 そう、わかってはいたのです。しかし、どうにもすっきり言葉にできなかった本質を見事に抽出し表現してくれています。つまり、キャラクタープレイに関する問題です。 この問題こそ、馬場講座を最初に読んだときに強く反発を覚えた点であり、後のコラムでもしっくりこなかった点でした。 最初に馬場講座をちょこっと読んだとき、キャラクタプレイを強く否定するその記述に大いに反感をもったものです(馬場講座で否定しているキャラクタプレイと僕の思い描いたそれとは違っていたわけですが)。そしてその論理を否定してやろうとじっくり読み込んだ結果、…こりゃ凄いと感服してしまいました。馬場氏の計算通りに、その術中にまんまとはまってしまったわけです。 その後コラムの連載が始まり、「強いキャラクタープレイ」「弱いキャラクタープレイ」という区分けが出てきましたが、呼び方からもわかりますように、程度問題である、という主旨でした。つまり、両者の間に質的な違いはなく、やりすぎにならないよう注意しよう、という馬場コラムにしては珍しくまっとうなことをそのまま書いているだけでした。この結論から出てくる対策は、他の参加者に迷惑にならないように心配りをしようとか、コミュニケーション能力を上げようといった実効性に乏しいものばかりです。 しかし、今回白河堂さんが、ようやくにして明確な言葉で説明してくれています。
ここで私が指摘したいのは、一つの考え方である。つまり、否定されるべきは、物語性でも、演劇性でもない。真に否定されるべきは、その物語性/演劇性を、RPGのゲーム要素として料理しないままに楽しもうとする、非ゲームデザイナー的な態度にこそある、ということだ。
この引用はいってみればハイライトシーンです。ちゃんとリンクから全部読みましょうね。 これこそ、馬場講座の後についに現れた RPG にとって最も重要な言説ではないかと評価しています。 馬場講座で最も重要な点は、RPGの本質は意志決定を主軸とする「ゲーム」であるという立場を明確にし、これでもかというくらいそのことを強調しているところです。後は蓄えたノウハウをこの軸に沿って展開していくだけといっても良い。僕のサイトの論考記事も、「ゲーム」「意志決定」を軸として僕の蓄えたノウハウやアイディアを展開したものがほとんどです。 また、キャラクタプレイやストーリィを重視する立場の人たちが成功していないのも、「ゲーム」「意志決定」に替わる本質、理論の軸を抽出するのに失敗した、もしくは小手先のテクニックの解説にいそしみ本質は何かという点に頭が回っていないからです。僕が蓄えていたノウハウだって、「キャラクタープレイ」を RPG の本質と見なして展開すれば、同じテーマでもまた別の記事になったことでしょう。 そして、白河堂さんの上の言葉もまた、強力な軸となりうると見ています。 それによれば、RPGとは「物語」や「演劇」もゲーム要素として取り込むことができるゲームです。 では「物語」をゲームとして取り込むとはどういうことでしょうか? このテーマについて今まで意識的に論じられたことはほとんどないのではないかと思います。それだけに「「物語」をゲームとして取り込む」ということについて考察を深めていけば、新しい「発見」がたくさんありそうです。 #トラックバックは引っ越し後につけよう、と自分向けのメモ。